fbpx

Column Category :

日本酒歴史物語(其の弐)~日本酒伝道(R)養成講座9~

日本酒歴史物語(其の弐)~日本酒伝道(R)養成講座9~

参照元:国立国会図書館デジタル コレクション (外部サイト) 
『酒飯論図絵巻』 より 室町時代 武士の宴会 図

今夜の話は、日本酒の歴史 其の弐。
前回、日本酒歴史物語 (其の壱) では、古代~奈良時代、『神の酒から人の酒へ』と移り変わる時代の日本酒にかかわるエピソードを知りました。そして、今回はその続き 平安~安土桃山時代の話になります。
講師は、お馴染み 日本酒伝道師養成講座・塾長 杉原英二先生です。

九限目:日本酒歴史物語 (其の弐)

この時代は、煌びやかな平安貴族の世界から、武骨な武士の時代へ、そして戦国へと、社会体制が変わり、人々の繋がりも部落から藩へ国へと大きくなっていきます。それぞれの時代、人々とお酒はどのような関係にあったのでしょうか。
本日のお話も盛りだくさんですから、さっそく本題にまいりましょう♪

平安時代:宮中主体の酒文化

神様への捧げものだったお酒が、生活に浸透してきたのが奈良時代。お酒に関しての情報は、万葉集などの歌集から推察するしかありませんでした。
平安時代には、宮中の様々な事柄を書き残すようになり、お酒についての記述もみられるようになります。有名な物では、平安時代の法令集である『延喜式』(10世紀頃の編纂) にもお酒のことが登場します。

律令制のもと、造酒司(みきのつかさ/さけのつかさ)という役所が、 宮中で使用する酒などの醸造を司っていました。そこでは、御酒糟(ごしゅそう)と呼ばれる儀式で使用されるお酒から、御酒(ごしゆ)、御井酒(ごいさけ)、醴酒(こさけ)など、13種もの酒が造られていたそうです。また、延喜式には御酒槽の醸造法は、酒を酒で仕込み、栞る(搾る)と記されています。現在の貴醸酒に相当する濃厚なものだったのでしょう。

もう一つ、平安時代のお酒に関する小ネタを。
律令制度では、課税対象となる家のランク付けをしており、税額が多い順に 大戸・上戸・中戸・下戸 と割り振っていました。そのランクごとに、婚礼時お酒が振る舞われていました。課税ランクの一番低い下戸の家庭には、ほんのわずかしかお酒が供されない。そこから、お酒を飲めない人のことを、下戸(げこ)というようになったのだとか。
一昔前までは、お酒をたくさん飲む人は上戸(じょうご)といっていました。現在こちらはあまり使われておらず、”笑い上戸” と使うときは違う意味になってきていますね。

それにしても、納税額によって飲ませてもらえるお酒の量が決められるとは… 律令制度って厳し~い(><)。高額納税者でなくても、好きなだけお酒の飲める現代でよかったです。

鎌倉・室町時代:時代を変える僧坊酒起こる

参照元 : 国立国会図書館デジタルコレクション (外部リンク)
『大和名所図会』 より 奈良菩提山 正暦寺

時代は進み、貴族の世から、武士の世へと変化してゆきます。
この頃、酒造りについても大きな変化が起こります。

平安時代までは、朝廷や神社が酒造りの中心でしたが、武士の時代に入ると朝廷での酒造組織は廃止されます。それと入れ替わりに、商業としての町衆による酒造りが広まります。その勢いたるは半端なものではなく、 泥酔して事件を起こす人が後を絶たず、1252年に鎌倉幕府が禁酒令:沽酒の禁(こしゅのきん) 公布したほどです。

室町時代になると、その傾向はさらに進み、京都洛中には、最盛期342軒もの酒屋が乱立していたそうです。
それは、荘園領主が洛中に居を構えていたため各地の良質な米が集まっていたこと、米麹の製造と販売の権利を北野神社が独占していたことによります。
その中で有名だったのが、柳酒屋と梅酒屋。
<< 松の酒屋や梅壺の柳の酒こそすぐれたれ >> という狂歌に歌われ、持て囃されていました。

一方、この時代には、寺社による酒造りも広まります。僧坊酒 の台頭です。

奈良の幾つかの寺では、米を精白してつくった上質なお酒 南都諸白 が造られ、名声を得ます。その筆頭が、奈良菩提山(ぼだいせん) 正暦寺(しょうりゃくじ)のお酒 菩提泉(ぼだいせん)です。
この酒造りにより、現在の生酛(きもと)造りのもととなる、菩提酛(ぼだいもと)や、三段仕込み、火入れなど、現代まで引きつがれる重要な技術が確立されたそうです。

なぜ、寺社による酒造りが増え、その技術が向上したのか…
この時代の寺社には、人手も、場所も、資金も豊富にありました。また、僧たちは学識も高く勉強熱心だったため、科学的な分析・実験が行われ、酒造りの技術が格段に向上したのです。

この酒造りが資金源となり、中世の寺社が政治的にも力を持つ一因に繋がるのですね。そして、戦国時代の破戒僧たちを生み出すことになり、武士との衝突が各地でおこったとなると… なんだか複雑。
良いお酒を前にしたら、和を尊び、楽しくうまし酒を味わいたいものですよね。

安土桃山時代:覇者は宴席でうま酒を振る舞う

写真 オリジナルサイト: 京都の桜写真 (外部リンク)

鎌倉・室町時代、酒屋が増えたことで下級武士にまで飲酒が親しまれるようになりました。その流れで、戦国時代には、出陣の際、戦勝の宴と、さまざまな機会にお酒が用いられています。

そして、豊臣秀吉による天下統一。
戦国の世が終わって、今度は明るい宴会の場でお酒が沢山飲まれるようになります。例えば、有名な『醍醐の花見』。京都の醍醐寺でとりおこなわれた盛大な宴は、秀吉の近親者、諸大名とその配下の女房衆まで1300人を超える、大規模な催しだったそうです。

醍醐の花見のために、日本各地から銘酒を集めた記録があります。

加賀の菊酒
白山山麓の菊の群生地を通った水で寒造りしたお酒。菊の滴を集めた水は尊ばれた。
備前児島の酒
宇喜多秀家が岡山城下に持ち込み造らせたお酒。酸が高く濃厚な味わいであった(文献をもとに、宮下酒造で復刻)。
博多の練貫酒
もち米で仕込まれ、練り絹のような照りがあり、ねっとりとした甘口のお酒。
河内 金剛寺 天野酒
二段仕込みで造られた澄んだお酒。秀吉より『美酒言語に絶す』と朱印状を授かった。
奈良 菩提寺 南都諸白
1600年代に伊丹酒が台頭するまでは、京や江戸で大きなシェアをしめていたお酒。
伊豆韮山 江川酒
北条早雲や徳川家康に献上されたお酒。田舎酒の五大銘酒とされていた。

加賀・博多・伊豆… 輸送手段が確立されていない時代に、なんと遠い所からもお酒を集めていることでしょう。当第一のうまい酒を女たちに振る舞う、太閤殿下の大盤振る舞い!
この花見に参加した女達には、衣装まで配られたそうですから、女房衆の太閤殿下の人気は不動のものになったことでしょう。たいした人心掌握術ですね。

九限目の最後に…

平安~安土桃山時代まで、駆け足で酒の歴史を学びました。
ここに記載したエピソードは、ほんの一部。それぞれの時代に、まだまだ沢山のお酒にまつわる話があります。

上記のように、豊臣秀吉がお酒を上手に使って権勢を誇示したのに対し、織田信長は酒宴では家臣を恐れさせたようなエピソードが並びます。”浅井朝倉を打ち取った際には、その髑髏で盃を作らせた” とか、”饗応の準備が悪いと明智光秀を強烈に叱責した” とか…
そして、戦国の世を終わらせた徳川家康は、健康オタクで大酒を飲むことはなかったそうです。お酒は情報を集めるための手段として、巧妙に酒宴を使っていたのだとか…

これらが真実であったかどうかは、定かではありません。しかし、お酒が人々の生活に定着し、酒宴が頻繁にあったからこそ、これらのエピソードが生まれ、広まったのでしょうね。

さて、この次はいよいよ江戸時代に入ります。
清酒文化が花開き、一般庶民にも浸透した時代です。
次はどんなお話がでてくるか、楽しみです!(^^)!


※ 注 ※
この記事は筆者が受講して、特に印象深かった点を中心に記述しています。実際の講座では、本記事にない色々なお話がなされています。また、ところどころ感想もまじえておりますので、ご了承ください。