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日本酒歴史物語(其の参)~日本酒伝道(R)養成講座11~

日本酒歴史物語(其の参)~日本酒伝道(R)養成講座11~

歌川国貞(初代) 江戸名所百人美女の内 呉服ばし・駒形・小梅

日本酒の歴史 其の参。
今夜の話は江戸時代。日本全国の商人・農家での酒造りが浸透し、庶民の間にも飲酒文化が花開く時代になります。

講師は、お馴染み 日本酒伝道師養成講座・塾長 杉原英二先生です。
歌舞伎、浮世絵、俳句と、いずれの文化も大衆が盛り上げた時代ですから、お酒にまつわる話もきっと面白いことが飛び出しそうです。

なお、これまでのお話は、こちらで…

日本酒歴史物語 (其の参):江戸時代

参照元 : 国立国会図書館デジタルコレクション (外部リンク)
『江戸久居計』 より 居酒屋の図

戦国が終わり平和が訪れた江戸時代は、1603年~1888年までと285年の長きに渡ります。
平和の世らしく、お酒の造りも流通も、商人中心の時代になります。飲酒は公家や武士だけでなく、長屋の八つぁん・熊公に至るまで… 江戸庶民に一気にお酒が身近になった時代です。
冒頭に載せた浮世絵は、江戸後期に書かれた『江戸名所百人美女』からの三美人。何れもほろ酔いかげんと見受けられます。こうした若い女性までもが普通に飲酒していたのが江戸の町なのです。

江戸の町がまだ整備されていなかった頃、市中の人工7割は男性が占めたそうです。
参勤交代でやってきた地方武士、町をつくる職人、商人がほとんど。男やもめで、火おこしから始める食事の支度は大変ですから、食事はもっぱら外食になります。
そのため、早い時期から江戸市中には振売り、煮売屋、屋台など、今でいうファーストフード店が流行します。それらの店では食べ物を売るだけでなく、酒も出すようになりました。それが、居酒屋の始まりです。

居酒屋はすっかり定着し、江戸後期には1800軒以上の居酒屋があったとか。多くの店では澄み酒(=清酒)が扱われており、最盛期 人口100万人といわれる町で、消費されるお酒の量は半端ありません。そのため、江戸には大量お酒が運びこまれていました。

ちなみに、江戸市中では清酒が飲まれていましたが、同じ頃の田舎では濁酒が主流。お米を作っている農家の人々には、清酒はまだまだ “ハレの日の特別な酒” だったようです。

江戸時代の酒造り

参照元 : 国立国会図書館デジタルコレクション (外部リンク)
『摂津名所図会』 より 伊丹酒造

清酒が庶民にも広がり、酒造業も増えたと喜んでいられないのが江戸幕府です。何しろ、お酒の原料・米は、武士の給料にも使われていた重要なアイテム。幕府は酒株による酒造制度を設け、造りを抑えようとします。更に、運上金として、酒に重い税金を課して徴収しています。

しかし、実質上はなかなか統制できず、米の不作や飢饉が起こるたび、食料を確保のために、幕府は何度も酒造制限を発令しています。反対に、江戸後期には米が取れすぎたため、勝手造り令を発布し、酒造りを自由化しました。酒は農村地帯にとって貴重な現金収入源なので、爆発的に酒造りを営むものが増えました。現存する江戸期創業の酒蔵はこの頃が多いようです。

江戸で名を馳せた 灘の酒 が隆盛するのもこの頃です。

江戸初期から、良いお酒といえば上方のもの。江戸の町には、伊丹や池田のお酒が運び込まれており、酒屋の店先に「伊丹銘酒」などの看板を大きく掲げて、客にアピールしていました。
なぜ 良い酒=上方 かというと、上方では早くに現在と同じような酒造りが確立されていたからです。具体的には…

・それまでは甕を使った仕込から、大きな杉樽に変えることで、仕込容量を増大させた。
・幕府の統制により寒仕込に限定され、農閑期に杜氏たち働き手が確保できた。
 特に伊丹辺りでは勤勉な丹波杜氏が酒造りの技術集団となっていった。
火入れ、三段仕込みなどはすでに僧房酒で確立され、上方では定着した技術であった。

ところが、後期にになると、伊丹からほど近い灘が、一大勢力になります。そこには酒造り技術の発展に加え、江戸の増え続ける需要に応えるために、次のような特徴が灘にはあったのです。

・酒造りに適した良質な硬水:宮水を使うことで、安定して良い酒が造れた。
・六甲山系の急流を利用した水車により、たくさんの精米ができるようになった。
・海岸地帯に醸造場を設けることで、海上輸送で大量な酒を送りだせた

こうして灘の酒は、江戸で大流行り。一説には、江戸市中で飲まれた酒の7~8割が下り酒だったとか。
売れるとなれば数々の対策を打ち出し、醸造場の移転さえ躊躇ない。上方の商人魂には感嘆しますね。

江戸の華「下り酒」と樽廻船

参照元 : 国立国会図書館デジタルコレクション (外部リンク)
『摂津名所図会』 より 安治川河口 図

鉄道もトラック運送もない時代、灘に限らず、上方のお酒は主に海上輸送で江戸に運ばれました。

陸上輸送では、お酒は馬で運びます。四斗樽2つを馬の両脇に振り分けて積んでいました。しかし、江戸での需要が膨らむと、馬での輸送では全然追いつきません。そこで、船を利用しての海上輸送が利用されるようになりました。

始めの頃は、大阪-江戸間の幹線航路に就航していた菱垣廻船に酒樽をのせて輸送していました。幕府は江戸にあっても商業の中心地は上方、菱垣廻船は日用物資全般を扱い頻繁に行き来していました。ところが、酒需要が増えとより多くの酒を、より早く運びたくなります。そこで酒荷を専用に扱う、樽廻船が独立して就航するようになりました。

今ではその陰が薄くなってしまいましたが、江戸の町は水上交通が発達していました。江戸城を中心に、ぐるりと内堀・外堀が張り巡らされ、要所に水路が設けられていた。そんな計画的な街づくりがされていました。
江戸の海側玄関口 新川(現在の中央区茅場町付近)には、数多くの酒問屋が集まり、上方の酒はここから江戸中の商人へと、お酒が卸されていたのです。

この樽廻船による酒荷輸送は、江戸後期には加熱してゆき、新酒番船競争が起こります。

西宮(もしくは大阪)から、新酒を積んだ廻船が同時にスタートし、江戸の新川までの輸送の早さを競うものです。
早い船でも10日程かかる大阪-江戸間の輸送を、な・な・な・なんと3日で運んだのだ記録が残されているのだとか。初モノ好きの江戸っ子も、これには大盛り上がり! 毎年恒例のお祭り騒ぎ、一番船の水夫たちには、かなりなご祝儀が振る舞われたようです。

それにしても、10日かかるところをわずか3日で航行したとは… 船乗りの技術? 気合?? 命がけで寝ずの航行だったのでしょうか。小説の題材にでもなりそうな話ですよね。

江戸時代物語の最後に…

参照元:足立区画像オープンデータ:浮世絵 (外部サイト)
擁書漫筆 酒合戦図

江戸期のお酒の広まりと、上方との関係を中心の話になりましたが、この日の授業では、もっとも~っと色々な逸話がありました。そのすべてをここでは書ききれませんので、最後に面白いお話をもう一つ。

太平の世、色々な土地で酒合戦が行われていた記録があります。酒合戦というのは、大酒飲み大会。ひたすら、沢山飲んだものが勝ち。我こそはという酒豪が集い、とんでもない量のお酒を飲んだ記録があるそうです。

そんな中のひとつが、千住酒合戦。江戸後期の有名な文人、大田南畝がその様子を書き残しています。南畝を始め、文人墨客も集った会の入り口には、
 「不許悪客 下戸・理屈 入庵門」
と掲げられていました。悪酔い、下戸のお客はお断り! という意味ですね。
お酒は節度を持って楽しく飲みたいもの。時代が変わっても、この大前提は変わらないようですね。お酒を通して、江戸時代が親しみが感じられてきました。


※ 注 ※
この記事は筆者が受講して、特に印象深かった点を中心に記述しています。実際の講座では、本記事にない色々なお話がなされています。また、ところどころ感想もまじえておりますので、ご了承ください。