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日本酒歴史物語(其の四)~日本酒伝道(R)養成講座13~

日本酒歴史物語(其の四)~日本酒伝道(R)養成講座13~

図1:御酒頂戴 歌川広重(三世)(*1) 東京都立図書館デジタルアーカイブ (外部サイト) より
※ 画像の無断複製や二次使用禁止
 

今夜の話は、日本酒歴史物語(其の四)。
長き武士の時代は終わり、文明開化の近代へと時代は進みます。

TOPの浮世絵は、歌川広重 (三世)作の「御酒頂戴」(*1)。明治元年、天皇が江戸(東京)へ入られたのを祝って町民に御酒が振る舞われた際のお祭り騒ぎを描いたものです。各々の町に酒樽が下賜されました。祝い事にはやっぱりお酒を振る舞う。時代が移っても、変わらぬ習慣です。

幕藩体制が解かれ、新たな時代が動き出します。人々に、そしてお酒にとってどんな時代がやってくるのでしょう。
講師は、お馴染み 日本酒伝道師養成講座・塾長 杉原英二先生です。

なお、これまでのお話は、こちらで…

日本酒歴史物語(其の四):明治~大正時代

図2:明治中期の酒屋 New York Public Library Deigital Collection (外部サイト) より

その昔、神様への捧げものとして生まれた酒が、僧坊酒などを経て「清酒」として誕生しました。江戸時代には現在と同じような製造方法が確立され、清酒はしっかり庶民の生活に根を下ろしました。

明治以後の近代、酒造りについて江戸時代からの大きな変化といえば、次のような2点でしょう。

●酒造りが免許制になった
江戸時代は、幕府が酒造株という形で酒造統制をしていました。
この制度で酒株に応じて醸造量が制限されていたものの、実状は幕府の意に反して株以上のお酒が造られていたようです。そこには、長く続いた幕藩体制の仕組みがあり、御法度破りの取り締まりや、酒税の徴収は各々領地によってばらつきがあったのです。

明治になると、廃藩置県により中央政府が全国統一的に施策を執り行うようになります。その流れで、酒造株は政府により没収され、酒造りは免許制度へと変わったのです。
つまり、免許料を払って登録すれば、だれでもが自由に酒造が行えるようになったのです。
また、酒株のように造石量の制限もないため、登録した者は毎年の醸造量も自由に決めて酒造りができるようになりました。

●科学的なアプローチが酒造りに加えられたこと
江戸時代、すでに現在とほぼ同じように、並行複発酵による酒造りが行われていました。これは世界に類を見ない醸造方法で、当時来日していた外国人も「真似のできない称賛する技術だ」と書き残しています。しかし、その造りはまだ “勘と経験” によるところが大きいものでした。

明治維新により、日本には欧米から科学の知識が大量に流れ込んできます。
蒸米に麹菌をはぜ込みさせ、酒母で酵母を培養、三段仕込みで醪を造り、出来たお酒れに火入れする。これらの工程一つ一つを “どうやるか” は確立されていましたが、”なぜそのようにするか” は解き明かされておらず、経験値で築かれた酒造りとでした。
そこに科学のメスが入り、”なぜ” の部分が科学的に立証されていきます。その結果、より安定した酒造りができるようになり、酒質の向上へとつながっていったのです。

開国により日本は、蒸気機関車や電気など始めてみる工業技術を取り入れ、大きく経済発展してゆきます。醸造業界にも近代化の波が押し寄せ、科学のメスのほかに、機械や近代機器が導入されていきます。
いま私たちが酒蔵で見られる光景にだいぶ近づいてきました。この時代のことを知ると、酒蔵見学がより面白くなりそうですね。
 

明治:酒造の世界も文明開化

政府による酒造免許制度が始まったのが、明治4年。
それから間もなく、明治政府は国家近代化の新産業育成の一環で、明治7年に外国人技師を招聘し、日本の伝統技術にも科学的なアプローチをしてゆきます。その一つに日本酒がありました。

彼等が酒造りを調べたところ、その醸造技術に驚かされます。
例えば、日本では腐造防止するために行われていた「火入れ」は、300年も前から行われていました。これは、19 世紀後半にパストゥールが発見した低温殺菌法と同じ原理であったのです。酒造りの技術者たちは、温度計のない頃から、酒の旨さを損なわない温度で殺菌する方法を見つけだし、後世へと脈々と受け継いでいたのです。

近代科学により酒造技術に確かな裏打ちがされるとともに、日本の中からも酒造技術改良の機運が高まります。その目的は、

  1. 腐造をなくすこと
  2. 酒質を上げること

にあります。

これらの対策には、明治政府も注力してゆきます。何故ならばこの時代、国税における酒税の位置はとても高かったのです。明治14年には、酒税が国税に占める割合は17.3%となり、まさに国を支える財源的な産業となっていたのです。

その流れのなか、明治37年、大蔵省に醸造試験所 (現在の(独)酒類総合研究所)が設立されます。
この機関は、酒類醸造の試験と講習に関する業務を担い、各地の酒造業者に新しい研究成果を教え、基本的な酒造技術を指導するのに大きな役割を果たしました。数々の成果のなかでも、下記については、現在の酒造りに繋がるものでしょう。

  • 明治39年:櫻正宗酵母が優れた酵母として選別される(きょうかい一号酵母)
  • 明治42年:”山卸し” 工程の廃止した酒がつくられる(山廃もと)
  • 明治42年、速醸もとの開発により、製造期間短縮をもたらす

この他にも、良い酒を安定して造るための、様々な科学的な成果が生み出されてました。きっとその数以上にたくさんの失敗もあったのでしょうね。七転び八起き。醸造研究者たちが日々努力した結果を、今私たちは学んでいるのです。
 

大正~昭和初期:時代の波に揺れる酒造業

明治から大正時代にかけて、日本酒の生産量は現在よりもはるかに多かったことがわかっています。
現在の清酒生産量は、大凡400万石。これに対し、明治初期は約300万石、天候などの色々な事情により大きな増減はありますが、明治中期には500万石を超え、大正8年のピーク時には618万石となります。その後、関東大震災や昭和の金融恐慌により激減してゆきますが、戦前の生産量は、現在よりは多かったようです。この生産量の多さには、戦争景気という時代背景も見過ごせない要因なのでしょう。

そんな時代の中、酒造りにもいくつか技術発展があります。

●琺瑯(ホーロー)タンクと一升瓶の普及
関東大震災の後、復興のため建設資材が高騰し、杉材が入手困難になりました。そのため、仕込用の大きな樽も、運搬用の四斗樽を新たに誂えるのは難しくなりました。その窮地の打開策となったのが、灘の会社が開発した硝子被膜で覆った金属製の琺瑯タンクと、大阪のガラス工場で造られていた一升瓶です。

●竪型精米機の開発
それまで人力もしくは、水車で行われていた精米が、竪型精米機の開発によって、大量の酒米を短時間に効率よく精米出来るようになりました。この精米機の登場により、高精白の研磨が可能となり、昭和4,5年頃から吟醸酒が造られるようになりました。

こうした新しい技術は、醸造研究所による啓蒙・技術指導により広められていきました。
  

そして、酒造り技術の向上の一役として忘れてはならないのが、全国新酒鑑評会です。

第1回は明治44年、国立醸造試験場が主催となり開催されました。目的は、その年の新酒の品質傾向を知ることと、各蔵の醸造技術の向上に資することでした。
目論み通り、鑑評会は全国の蔵に良い酒質を定着させるきっかけになりました。その反面、市販されない品評会用の酒として、吟醸酒造りが重要視される傾向が出てきました。その流れの延長で、昭和10~12年頃から、全国的に淡麗・さわやか・甘口が流行してゆきます。
こういった流行に対し、灘勢が反対の声を上げます。灘の酒は、伝統的な生もと造りの辛口、「消費者からも強い支持を得ているのに、灘の酒の受賞はなくおかしい」というものです。その後、灘の蔵は鑑評会用の酒造りもせず、しばらくの間、鑑評会の出品をしなかったそうです。

新酒鑑評会は(独)酒類総合研究所の主催に変わり、現在も続いています。灘の酒蔵からも出品されており、もちろん金賞受賞酒も毎年多数出ています。
戦前から長く続くこの品評会について深堀しても、近代日本の清酒の香味や、造りのトレンドがわかりそうですね。日本酒文化という広い領域の中の、ある一面ではありますが、これもまた興味深い話がありそうです。
 

近代の日本酒造りに貢献した人々に乾杯!

最後に一つ、書ききれなかったエピソードの触りだけ書いて、今回のレポートの締めにします。

明治時代以後、酒質を上げることに力が注がれたことは、前述しました。その際、醸造研究者たちは、ただ酒質を上げるのではなく、それぞれの地方にあった酒造りの探求と指導を行っていました。
江戸時代以後、清酒の一大産地である灘の酒造りをまねしたところで、旨い酒はできない。それは、技術の問題だけではなく、各蔵の環境の違いがあるからです。それに気づき、その土地の特性を研究し、それに見合った酒造りの工夫が行われました。
それによって、明治~昭和に至る年月の中、近代日本酒の立役者たる研究者が多数出現します。広島の三浦仙三郎、秋田の花岡正庸、熊本の野田金一 などなど。彼等の功績・苦労を聞いていると、胸が熱くなるような話が満載です。

近年の日本酒イベントで、我々は各地のお酒を飲み比べることができます。各地の日本酒の特徴を築いた彼らの功績を称えつつ、乾杯といきたいと思った講座でした。


※ 注 ※
この記事は筆者が受講して、特に印象深かった点を中心に記述しています。実際の講座では、本記事にない色々なお話がなされています。また、ところどころ感想もまじえておりますので、ご了承ください。